2014年11月09日

種村直樹先生の「頑張ってください」

旅鉄2009_2.jpg

ひとつだけ。種村直樹先生との思い出話を書かせてください。
先生との思い出は数限りなくありますが、このことだけは一生忘れないと思うことです。


日付もはっきりわかっています。2008年12月9日のことです。
このブログのこの記事に書いた「都内某所にて打ち合わせ」とは、飯田橋の鉄道ジャーナル社でのことでした。
もう6年近く前のことです。

その頃には「列車追跡」とのタイトルは打ち出されなくなっていましたが、列車追跡スタイルの記事「国鉄特急形交直流電車の血統を守る 北陸本線特急雷鳥45年目の冬」として鉄道ジャーナル2009年3月号に掲載された、「雷鳥16号」同乗取材の打ち合わせです。

宮原正和編集長との打ち合わせは、特に問題なく終わろうとしていた時のこと。
当時、編集部の奥に仕切られてあった社長室の扉が突然、ガチャ!と開いて、竹島紀元社長(元編集長)と種村直樹先生が姿を現したのです。

僕は不意打ちを食らったかのような形で、「先生!」と叫んで、反射的に席を蹴って立ち上がってしまいました。
種村先生の前、特に仕事の場では、直立不動にならざるを得ません。
当時、僕は「鉄道ジャーナル」への執筆を始めて、まだ1年弱。それに対し、先生は僕が小学1年生だった頃から、この編集部に出入りしていたのですから…

先生は、土屋がその場にいるとは、もちろん思っていなかったでしょう。
でも、ガチガチになって挨拶する僕に、「やあ、久しぶり」と声をかけてくださいました。
その声にはなんとなく張りがないように思えました。大病を患った後で、筆致も弱々しくなっていた頃のことです。

しかし、先生の元気のない様子は、病気のせいだけではなかったのです。
間抜けな僕は、後になって気づきました。

ちょうど、僕が鉄道ジャーナル社を訪れた前日、同社のウェブサイト上で「旅と鉄道」の、2009年2月号(写真)限りでの休刊が発表されていたのです。
ということは…当たり前ですが、同誌に連載されていた「日本列島外周気まぐれ列車」も、未完のまま掲載打ち切りということになります。

この連載は、「種村直樹の汽車旅相談室」が「旅と鉄道」2006年夏の号で終了。「鉄道ジャーナル」への記事執筆が2007年10月号(「レイルウェイ・ライター懐かしの名列車 特急,食堂車 どちらもお初の<かもめ>」)で終わった後、鉄道ジャーナル社との間で最後に残った、種村先生の"仕事"でした。
なお、土屋の「鉄道ジャーナル」デビューは2008年4月号ですから、ちょうど入れ替わり。目次に名前が並ぶことはありませんでした…

つまり。
僕が種村先生に鉄道ジャーナル社で会った日、竹島社長との間で話し合われたことは、「旅と鉄道」の休刊による掲載打ち切りに関してに違いありません。
すなわちその日は、「新・特急<さくら>西へ!」で始まった、種村先生と鉄道ジャーナル社との30年以上にも及ぶ"ご縁"が終わった日だったのです。
僕はその瞬間に、図らずも立ち会ってしまったことになります…


しかしながら、その時の僕は、そんなことにはまるで気が回らず、種村先生に偶然会えた喜びもあって、これから金沢へ向かうこと、明日「雷鳥」の列車追跡をやることなぞを、ベラベラと喋っていました。
どこまでバカなんでしょう。

黙って聞いていた先生は、「そうですか。頑張ってください……」と。

バカな僕は、ただの激励だと思って、「はい!」と最敬礼。ドアマンの如くドアを開け、帰ってゆく先生の後ろ姿をずっと見送っていました。


「頑張ってください」
「『雷鳥』の取材と執筆を頑張ってください」という意味だったのでしょうか。
たぶん、そうだとは思います。
だけど、「僕の記事はもう終わるけど、あなたはこれからも『鉄道ジャーナル』にどんどん書いてくださいね」という意味も含まれていたのなら、あまりの非力ゆえ恐縮するしかないのですが、これ以上の激励はありません。


もう、種村先生に確かめることはできなくなりました。
でも、依頼がある限り記事は書き続けます。
それが、先生との"約束"と思っています。


posted by twins at 01:33| Comment(0) | TrackBack(0) | カテゴリ無し | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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